カラッポな自分を埋めるのをやめると人生はまた一つ自由になる

insightzaoya / Pixabay

「僕は、カラッポだ。」

大学時代、あまりにも個性があり、自分の軸を持ち生きている仲間との出会いで、強烈に感じた感覚でした。自分がカラッポだといういわゆる虚無感です。

そして、30年の人生を生きてきた今でもその感覚は何も変わらずに持ち続けています。

「30歳になっても、僕はカラッポだ。」

でも、大学時代の頃とのカラッポ状態とは、大きく意味合いが違ってきています。30歳になった今、持ち合わせているカラッポな感覚は虚無感というものではなく、死ぬほど自由な感覚に形が変わっています。

カラッポという名の強迫観念

大学時代は、カラッポだった自分に焦りを感じて、心の空白を埋めようと必死にもがいて生きていた気がします。

当時は、カラッポの器を満たすために、手を変え品を変え、四苦八苦しながら悪戦苦闘する毎日の繰り返しが人生のことだと思っていました。

そう思っていたので、人は心の空白を埋めるために仕事をし、達成感や地位や必要とされる事でカラッポな感覚を埋めているんだなと、少し斜めから社会を見ていたわけです。

空白を埋めるためにお金を稼いで。空白を埋めるためにお金を使って。空白を埋めるために称賛を得て。

ご飯を食べて紛らわし、お酒を飲んで麻痺させる。恋愛をすることで他人からの愛情で満たそうとする。

子どもを産んで育てていくことで、カラッポな自分を忘れ、旅に出て非日常の新しい刺激で心を満たそうとする。

仲間と語り合いカラッポな器を埋めていっている進捗を確認し合う。SNSで他人からの承認欲求で埋めようとする。

虚無感がある場所にお金が発生する

そして、カラッポという名の虚無感は経済を大きく動かす原動力にもなっていますよね。

満たされない空白を埋めるための場所がネット上であれ、リアルであれ存在しています。

心の空白を埋めるfacebookやインスタグラムは承認欲求を埋めるための道具として使われ、過食症患者のように空白を埋めるために、過剰に何かをしたり見たりしています。これってかなり異常なわけで。

都会に住む人は、特にそうかもしれません。

ヒルズ族も、なんとか女子も、そこには、過剰な自尊心や、過剰な承認欲求が満ちています。

女性起業ブームでトラブルが数多く起こっているのも、元をたどれば、心の空白を埋めるために巻き起こされているものですよね。

要するに、バランスを失っているんですよ。だからこそ、カラッポな虚無感を埋めるための商品・サービスが爆発的に売れています。

人は、何かを手に入れれば、空白が埋まるはずだという幻想を見ています。

カラッポな器に水を注ぎ続ければ、いつか器がいっぱいになってこぼれだすように、器を満たし続ければ、いつかカラッポな器は満ち足りて、満たされるはずだという幻想を見ているんです。

でで、そんなわけはないんですよ。

心は砂漠なんだ

僕の場合、最初に満たすために手に入れようとしたのは、お金であり、恋愛であり、仕事による賞賛だったかもしれません。

ですが、何かを手に入れて、満たしていったはずの器は、満たされる事はなく、穴の空いたバケツのようにすぐにカラッポになってしまう。それはまさに、枯渇しきった砂漠のように。

手を変え品を変え、満たそうとすればするほど、満たされない現実に、どんどん絶望が深くなる。

「あれ?何かがおかしいぞ。」

その素朴な疑問は、物質や、他人という外側からでは自分の器が満たされないことを知る上でとても重要な質問でした。

「なんで、こんなに豊かで、便利で、物が溢れているのに、カラッポな感覚が埋まらないんだ。」と。

きっと、多くの人もこのスパイラルに陥っているんだと思います。

だから、外側で自分を埋める事にどこか限界を感じた人から、自分で自分を満たすという方向に、進んでいっていますし、少なからず時代が進んでいっています。

それが、自己啓発、スピリチュアル、ヨガ、瞑想、筋トレ、ナチュラル思考、ミニマリスト、シンプルライフ、宗教の世界という表情に変えて、流行という旋風を起こしているんですよね。

でもそれは、外側では満たされないから、自分で満たしていくのはどうだろうか?という単に切り口が変わっただけのものだったりします。

雑誌ananに引き寄せの法則特集をされていたり、瞑想特集される時代です。

でも、やっぱり僕は、そこに対しても疑問に思うわけです。

自分で自分を満たすなんて事は可能なんだろうか?そもそも満たす必要ってあるのだろうか?

満たすことが幸せの定義という風潮があるけれど、僕は満たさない方が幸せなのかもしれないと思うんですよね。正確には、満たされることはないんだから満たすことを追い求めることをやめるとかね。

そもそもすでに満たされている事に気づいていないだけだったりすることもあるわけで。どちらにせよ、満たそうとすること自体滑稽なわけで。

カラッポは自由だ

そこで、僕は思ったんです。カラッポってどこにでも行けるってことじゃないか!と。

であれば、カラッポな自分というのは怖がる必要のないもので、むしろ、歓迎すべきものなんですよ。

カラッポのままで良いと思うことだし、それってすごく自由なんだって事です。

カラッポのままで良いんですよ。

カラッポだと思って生きるからこそ、手に入れられるものがあって

  • 冷静さ
  • 自分にも他人にも期待をしなくなる
  • 目の前の楽しさを純粋に楽しめるようになる
  • エゴ無く他人に接することができるようになる
  • 他人をありのままに見ることができるようになる
  • 多様性を受け入れられるようになる
  • 自然なギブをできるようになる
  • 自分らしく自然体でいられる

中途半端に満たされた大人が中身を分け与えるようにする行為ほど迷惑なものってないんですよ。

こうやって、カラッポのままでいいという事が前提にあることで、世界の見え方が変わってきます。濁った世界が一気に鮮明に見えるようになるわけです。

自分らしい人生を生きるということは、人生は何かを埋めるためではないということに気づいて、カラッポな自分を良しと受け入れて、囚われずに生きることなのかもしれません。

それこそが、本来の自由の道なのかもしれません。

でも、そうやって生きていても、ときどき満たされたいという思いを抱いてしまうかもしれません。

だから、ときどき、理由もなく乾きを感じることがある。理屈に合わない、寂しさを感じるときもある。なので、どこまで行っても、本当は満たしたいのかもしれない。

でも、基本は、満たされなければ幸せになれないという不自然な幸せの定義から自分を解放することだ。幻想だと気づくことだ。

自由への道のりは自分の心をしっかり解放してあげることからはじまるのだ。