【人生あみだくじ理論】役に立たない自己啓発論よりよっぽど腑に落ちる人生を展開させていくロジック

僕自身、これまでの30年近い人生の中で「あの人に会ったから、今の自分がある」「あの出来事に出会ったから、今の自分がある」「あのチャレンジがあったから、今の自分がある」というような、たった1つの出会いやキッカケが、その後の人生の方向性を大きく変えていったという事がいくつかあります。

きっと、これを読んでくれているあなたにも少なくとも1つや2つは必ずあるはずです。そして、今回の記事は、その出会いを思い出しながら読み進めて欲しいです。

もしかしたら、あなたの人生を大きく変えるキッカケとなる記事になるかもしれません。新しい人生の解釈、視点、気づきになると確信しています。

お願いなので、途中で読むのを辞めたりしないで、最後までついてきてください。その価値は十分にあるはずです。

出会いにはメリットと同じくらいのデメリットがある

  • 「あの時、あの人に会ってなかったら別の運命になっていただろう」
  • 「あの時、あの出来事がなかったら別の運命になっていただろう」
  • 「あの時、無茶をしていなかったら別の運命になっていただろう」

それはコインの裏表のように、良い面も悪い面も両方持ち合わせているのが原理原則だというのが古い歴史からの知恵です。

この運命論というかキッカケについての考えを、もうちょっと続けてみるので、知的冒険を一緒に進めていきましょう。

日々の生活の中で無数に起こっているあの事、この事。過去の出来事の結果やプロセスが、ほんの少しだけ違っていたらどんな人生になっていたんだろう?という事は、誰しも一度は考えたことがあると思います。

そしてこの質問を自分の頭の中にポンっと投げてあげると、こういう回答が出て来ることでしょう。

「やっぱり別の人生になっていたかもしれないな」と。

望んだ方向に進むことは本当に良い事なのか?

例えば、中学でも高校でも大学でもいいので、受験の時を思い出してみて欲しいんです。受験したことが無い人は就職の面接の時でもOKです。

答案用紙の○印やマークシートを記入する位置が1つ違っただけで、その学校に受かるか受からないかなんてことがあるわけです。

面接なら、1つ受け答えが違うだけで合否が変わったりと。

当たり前の話かもしれませんが、大抵の人は受かると喜びます。そりゃそうですよね。志望する道に進めたらそれは嬉しいに決まってます。

でもね。それって実際のところ、分からないんです。分からないんですよ。

受かったから良かったのか?なんてことは、誰にも分からないわけで、望んでいた学校や会社に入らなかったおかげで、その後の人生が思いもよらぬ方向性で開けて行くことだってあります。

もしかしたら、ある日、ふと学校や仕事をサボりたくなって、いつもと違う道を選んだことで、命を落とさずに済んでいたことだってもあるかもしれない。

そういうドラマや漫画はよくあるけれど、あらゆる人の身に絶えず起こっている事です。僕は何回か死にかけている経験を経て、こういう発想をするようになったのですが、きっと、普通は眉唾ものだと思うかもしれません。なので、ここではそういうふうになっていると考えてみてください。

人生は選択の連続というよりは、あみだくじの繰り返し

この「ちょっとしたこと+ちょっとしたこと」を何度も繰り返されていく巨大なあみだくじを、僕は頭のなかでよーーく想像します。

巨大なあみだくじを頭の中に張り巡らして人生を俯瞰して考えてみると、こう捉えることが出来ます。

何にも変わらないよ、という「諦め」や、これでずっと安心だ、という「諦めの裏返し」は、その時々は正しいように見えるけれど、全く見当はずれな考えなのかもしれない、と。

少し分かりづらい表現かもしれないので、噛み砕いて言葉にするとこうです。

ドラマやスポーツ、マンガや映画に熱狂するのは、目の前で巨大なあみだくじの上を人が進んでいるのを、他人事として見られるからかもしれません。

そういった娯楽を観ながら、「人はこの先どうなるのか?」と、偶然とも必然とも解釈できる「あみだくじ」の展開を期待したり、期待はずれのどんでん返しの「あみだくじ」の展開を、他人事として熱狂しつつ楽しんでいるとの見方が出来ると思うのです。

そして、偶然とも必然とも解釈できる「あみだくじの枝分かれ」を、時には自ら選び、時には気付かずに歩んでいます。

「後悔」は隣の芝生が青くなる栄養

人は、今の自分に嫌気が差した時に「あの時こうすればよかった。そうすればもっと良い人生を歩めたのに…」という惨めな思いや悲しみなど、もうすでに取り返しのつかない後悔に襲われることがあります。僕もそうですし誰にでもあることでしょう。

その場合、後悔というのは無意味なものになります。隣の芝を青く見ている無いものねだりの状態だからです。

ただ、同じ過ちを繰り返さないために、より賢くなるために、失敗したときの自分の態度や見方を再度検証することにより、自分が可能な対応の幅を広げることができると思います。

古くからの言葉を使えば「失敗から学ぶ」「失敗は成功のもと」です。

失敗から学ばない人は、同じ過ちを何度も繰り返します。そういう人たちを何度か見てきました。

確かにこの先どうなるか、ある程度は予想できますが、僕は運命論者ではいので、まだ未来の「あみだくじ」は作られていないと思ってます。

「努力」次第で、いや「少しの勇気」と「運」次第で自分に有利な選択肢を、人間には手に負えないほどコントロール不能な「あみだくじ」に追加することもできるかも知れません。

結局、言いたいことはこれです。

自分の人生のあみだくじを歩くのは自分だということ。そして、一番楽しいのは「自分」のあみだくじだと思うのです。

すべての経験と記憶の集合体でつくったあみだくじ。

され、次のあみだくじはどこにつながるのだろう?

日々、思考が深まり、経験と記憶が作り替えられているので、あみだくじも同じように作り替えられているような感覚が僕にも強くあります。

きっと、未来はまだまだつくっていける。その可能性は誰にでもある。僕はそう信じています。

まとめ

自分だけではなく他人も複雑な「あみだくじ」を歩み、時には交差し、時には同じ線を辿る、全体を見通すことのできない膨大な「あみだくじ」から人生理論を紐解いてみました。

その「あみだくじ」を「社会」または「他者との関わりのなかで生きる人生」と言い換えても良いかもしれません。

「社会」とか「人生」ってみんな口にしますけど、その言葉のもつ真の意味って難しいものだったりします。

でも「あみだくじ」と言われればストンと落ちて理解できる気がしそうじゃないですか?

まず、自分の人生を考えるときには、小学生の頃の「あみだくじ」を思い浮かべるのが最適だと思います。

僕も含め、人はどうしても自分が都合の良いように断定したり、先入観で決め付けがちですが、さまざまな物の見方を知ると、自分の視野が広がりますね。

その広がりこそが人生の幅と奥行。そして、厚みに繋がっていくんだと僕は信じています。